「男とは?女とは?」2-1

「男はもっと男らしくならなければならない」とあなたはおっしゃいました。この男らしさとは何ですか?」

男らしさはふたつの方向をとることができる。
ちょうど女らしさもふたつの方向をとることができるように・・・。
男性的マインドは攻撃的に、暴力的に、破壊的になりうる――だが、それは可能性のひとつにすぎない。
男性はこれまでそれを試みてきたし、そのために人類はとても苦しんできた。
そして、男性たちがこの男らしさのネガティヴな局面を試みると、女性たちは自然とネガティヴな女らしさへと入っていきはじめてしまう。
男たちといっしょにやっていくという、ただそれだけのために――さもなければ、断絶が大きくなりすぎるからだ。橋をかけることができなくなってしまう。
そして女らしさがネガティヴだと、不活発、無気力、無関心になる。だから、ネガティヴな男性はネガティヴな女性にしか橋をかけることができない。

だが、ポジティヴな局面もある。
ネガティヴなだけというものはなにひとつない。
あらゆるネガティヴィティにはポジティヴな局面も備わっている。
どんな暗雲も裏では銀色に輝いているし、どんな夜にも夜明けがつづく――ポジティヴな男らしさは進取の気象に富み、創造性豊かで、冒険心にあふれている。
これらは同じ資質だが、異なった水準で動いている。
ネガティヴな男性的マインドは破壊的になり、ポジティヴな男性的マインドは創造的になる。
破壊と創造はふたつのことがらではなく、ひとつのエネルギーのふたつの局面だ。
同じエネルギーが攻撃にもなりうるし、同じエネルギーが進取の気象にもなりうる。
攻撃が進取の気象に富むと、それには独自の美しさがある。

暴力が冒険になると、暴力が探検に、新しいものへの、未知なるものへの探検になると、それは途方もない利益をもたらす。
そして、女性の場合も同じだ。不活発はネガティヴ、受け容れることはポジティヴだ。
それらは両方とも似ているように見える。
とても類似しているように見える。不活発と受け容れることのちがいを見分けるにはひじょうに深くまで見抜く目が必要だ。
受け容れることは喜んで迎え入れること、待っていることであり、そのなかには祈りがある。
受け容れることは主人、受け容れることは子宮だ。
不活発はただの鈍さ、死、絶望。待つものはなにもない、期待するものはなにもない、けっしてなにも起こりそうにない。
それは無気力へと落ち込むこと、ある種の無関心へと落ちていくことだ。そして、無関心と無気力は毒だ。

だが、無関心になるその同じものが執着のなさにもなりうるし、そうなったら、それは全面的に異なった風味をもつことになる。
無関心は無執着のようにも見えるが、そうではない。無関心とは、ただ興味がないということだ。
無執着は、興味がないということではない――無執着は徹底した興味、途方もない興味だが、それでも執着しない能力を備えている。
そこにある間は、その瞬間を楽しむがいい。
そして、その瞬間が消えはじめたら、あらゆるものがかならず消えるのだから、それを去っていかせるがいい。
それが無執着だ。

無気力はネガティヴな状態だ。
人はただそこある泥の塊のようだ――成長の可能性はない、活力の横溢はない、花となって咲くことはない。
だが、その同じエネルギーがプールに、エネルギーの巨大なプールになりうる――どこにも行こうとしていない、なにもしていない、だが、エネルギーは蓄積し、蓄積し、蓄積しつづける。
そして、科学者たちは、あるポイントで量的変化が質的変化になると言っている。
百度の熱で水は蒸発する。九十九度ではまだ蒸発していない。九十九・九度でもまだ蒸発しない。
だが、あとわずか〇・一度で水は量子的跳躍をすることになる。

ポジティヴな女らしさは無気力のようなものではない。
それはエネルギーの途方もないプールに似ている。
そして、エネルギーが集まり、蓄積すると、それは多くの質的変化を経る。
男性は、ほんとうに男らしくあるために、冒険心に満ちていなければならない、創造性に富んでいなければならない、生においてできるかぎり多くの進取の気象を発揮できなければならない。
女性は、ほんとうに女であるために、男性の背後のエネルギーのプールでなければならない。
冒険が最大限のエネルギーをもつことができるように。
冒険がなんらかのインスピレーションをもちうるには、冒険がなんらかの詩をもちうるには、冒険心に富んだ魂が女性のなかでリラックスし、命を補給し、活力を取り戻すことができるには、エネルギーが必要になる。

OSHO

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