誰もが男と女の両性だ。

質問:すべての人は男と女、両方の部分を併せ持っています。
それが私たちの自己表現や、愛し方にどんな影響を与えるのでしょうか?

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誰もが男と女の両性だ。

なぜなら、誰もが両方の性から生まれているからだ。

あなたの中のある部分は父親から、ある部分は母親から受け継いでいる。だから、完全に男だけだとか、女だけだとかいうことはあり得ない。

実のところ、誰もが両性だ。
違いはただ程度の差でしかない。

男は女に比べるとより男性的で、女は男に比べるとより女性的なだけだ。
ただそれだけだ。

もしあなたが男なら、脳の意識的な部分は男で、無意識な部分は女ということだ。

もしあなたが女なら、意識的な部分は女で、無意識の部分は男ということだ。
しかし、それが反対である場合もよくある。

たとえば、男が年を取るとより女性的になるし、女が年を取るとより男性的になる。
女が年を取ると、ヒゲが生え始めたり、声が男っぽくなったりするし、争い好きで怒りっぽくなり、イライラしがちになる。

男が年を取ると、より素直で従順で、女に従うようになる。男はだんだん素直になり、女はだんだん威圧的になる。
 
日々起こる変化もある。
女が激怒するとき、意識的な部分は失われ、無意識が非常に優勢になる。腹を立てた女は、腹を立てた男よりもずっと危険だ。激怒した女は、激怒した男よりもずっと危険だ。

が、それは、女の無意識な部分が稀にしか使われないため、とても新鮮だからだ。
それゆえ、それが使われると女は非常に危険になりうる。女が愛するとき、その愛は猛烈だ。女が憎むとき、その憎しみも猛烈だ。
 
男が愛するとき、その愛はとても深い。女のそれよりも深い。なぜなら、彼の無意識な部分は使われていないからだ。

女にしてみれば、愛することはごく当り前のことだ。それは、日常的なことだ。
女は愛する。
だが、男が恋に落ちるのは容易ではない。
それは日常的なことではない。
実際、稀にしか起こらない。しかし、ひとたびそれが起こると、その愛の深さは女の比ではない。

これは私の観察だが、すべての女は愛するものだし、女が愛しても、その愛はごく当り前のものだ。
それは女のマインドの一部だ。
普通、男はそんなに愛さない。
愛は普通、彼らがする行為のうちのひとつにすぎず、最も重要なものではないだろう。

ビジネスの方がもっと重要な時もある。そういう時、彼らにとって愛はビジネスの間のレクレーションや、リラクゼーションだ。
もしどちらかを選ばなければならないとしたら、きっとビジネスの方を選ぶだろう。

愛よりも政治の方が大切な人々もいる。
金、社会的地位、道徳・・・男には愛よりも大切なものがたくさんある。
だが、女はひたすら愛する。
たくさんある中のひとつではない。男が愛するのは、一日のうちでもせいぜい数分だ。女が愛するとき、その愛は二十四時間だ。それは自然だ。

しかし、ときに男が愛する時、どんな女も彼にはかなわない。なぜならその時には、彼の内なる女性が爆発するからだ。男が本当の意味で愛に走る時、彼はもはや男ではない。そうなると、彼の内なる無意識が爆発し、彼自身を完全に乗っ取ってしまう。

瞑想者がすべきこととは何だろう?

瞑想者はその両方に気づくことだ。
そして、そのどちらについても、自己同化をやめなくてはならない。
真の探究者は自己同化を捨てなくてはならない。
自分が男でも女でもなく、観察者であることを学ぶことだ。

そうして、あなたは生体を超えていくことができる。

そうしてはじめて、肉体を超えていくことができる。

なぜなら、男と女は肉体に存在しているからだ。
せいぜい、その影がマインドに存在しているにすぎない。
しかし、魂は男でも女でもない。
その両方を超えていきなさい。

OSHO

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